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太刀 白鞘入り Tachi, Shirasaya |
隅谷正峯
Sumitani Masamine |
【銘文】(太刀銘) 表 : 傘笠両山子正峯作之 / 裏 : 乙卯年霜月日 |
【寸法】刃長 77.2cm(2尺5寸4分7厘)、反り 3.0cm(9分9厘)、元幅 3.27cm、元重ね 0.80cm、先幅 2.45cm、先重ね 0.53cm、目釘孔 1個、刀身重量 947g 、白鞘全長 104cm |
【時代】昭和50年(1975) |
【都道府県】石川県 |
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【特徴】鎬造、庵棟、身幅広く、重ねやや厚く、腰反りつき、中切先詰まりごころとなる姿。 彫物は、表裏に棒樋を掻き、角止めとする。 生茎、鑢目勝手下がりに化粧鑢、先栗尻、目釘孔一。 地鉄は、小板目肌よくつみ、地沸つき、地景細かに入る。 刃文は、匂出来丁子乱れ、互の目交じり、足・葉よく入る。 帽子は、乱れ込み、先尖りごころに返る。 【見どころ】本作は隅谷正峯刀匠が3回目の正宗賞を受賞した翌年に制作され、鎌倉時代の名刀に迫る丁子乱れが華麗な二尺五寸超の堂々たる姿の太刀です。 隅谷正峯(1921~1998)は、大正10年1月24日、石川県石川郡松任町(現白山市辰巳町)の醤油醸造・販売業を営む家に生まれた。本名は与一郎(與一郎とも)、正峯の名は師匠である桜井正幸の名から「正」をもらい「峯」は姓名判断の心得のある人にみつけてもらった。富士山、立山と共に「日本三名山」のひとつとして知られる白山を幼い頃から仰ぎ見て育ったため偶然の巡り合わせだった。松任は白山の水の賜物と言われ、自身の作品も白山の賜物といえるかもしれないと述べている。 安政生まれの祖父与三郎は、はたち前に大工修行を積み、京都へ出て東本願寺で仏閣建築に携わった。そんな祖父の血を引いたのか手先が器用で小学校の頃の図画工作はいつも十点満点だった。 石川県立金沢第一中学校(現県立金沢泉丘高校)時代には、当時第九師団の司令部があった金沢の武張った軍都の雰囲気の中で刀の鑑賞に目覚め、帰宅の汽車を待つ時間に刀の鑑賞会などをのぞいて回り、我が家の蔵では大阪新刀・源信吉の二尺余の刀を見つけ出したりする。 「男は一人前になる前に白山へ登っておかなくてはならない」と加賀では言い伝えており、中学三年の夏休みに仲間と往復4日かかりで登り、登山の楽しみを覚え山岳部の門を叩き全国の山を歩く。学業は理数系は得意だったが英語が苦手、勉強一点張りの校風と家業を継いで欲しいという家の雰囲気に嫌気がさしていた。昭和13年3月金沢一中を卒業、大阪で弁護士をしていた伯父の元で書生をしていた時に京都の立命館の高専理工部が学生募集をしていることを知り、昭和14年4月、理工学部の機械工学科に入学する。 ある日、衣笠山のふもと等持院にほど近い建設中のキャンパスをそぞろ歩いていた時、「立命館日本刀鍛錬所」と墨書した白ペンキの棒杭が目に入る。その時の不思議な感動は、後年にもはっきりと思い出すことができるほどで、啓示のようにポツンと立っていた。鍛錬所は、立命館の中川小十郎総長が自分の趣味も兼ね、学生の参考にもなればと作られた。指導に当たる刀匠として桜井正幸刀匠が招かれていた。桜井正幸刀匠の父・桜井卍正次刀匠は、明治元年生まれで金剛斎とも称し、東京美術学校の美術工芸科の鍛金科で教鞭をとったことがあり、有栖川宮威仁親王の相手鍛冶をつとめたことでも知られる。正幸先生は、幼い頃から父の薫陶を受け、刀剣や鍛造に関する知識が非常に豊富だった。 隅谷氏は10人ほどの仲間と「日本刀研究部」をつくり、週一度、正幸先生を招き日本刀の歴史の講義を聴いた。 そのうち作刀が許され、炭も鋼もいくらでもあるから自由に使ってよいという環境の中、授業のない日曜は交互に鎚を打ち刀を作った。後に石の彫刻で知られる流政之氏ともこの鍛錬所で一緒に刀を作った。 戦時色強まる昭和16年3月、三年のところを二年で繰り上げ卒業となった。「どうせ戦地で死ぬ運命なら自分のやりたい刀鍛冶の仕事について、えんま様への手みやげ代わりに刀の一本でもつくってみよう」と刀鍛冶になる決意をした。理工科系は就職統制されていたが、流政之氏の父・中川小十郎総長のいきな計らいで、正式に鍛錬所員となる。毎朝8時に鍛錬所へ出かけ、夕方まで刀をみっちり作り、夕食後夜中12時まで研ぎの勉強、その後2~3時間本を読んで寝た。睡眠時間は一日5~6時間、一心不乱に刀浸けの日を1年4か月間過ごした。鍛錬や火づくりはまだ手に余ったが、焼き入れだけはものにしたいと必死だった。後年正峯は、現在やっていることの基礎こと焼刃は、この鍛錬所時代にマスターしていたと振り返る。 昭和17年7月、立命館の鍛錬所は古式鍛錬所「傘笠亭(さんりゅうてい)」一棟を残し火事で焼失。作刀意欲に燃える矢先、思うように刀作りができないジレンマにあった時、尾道市郊外の山奥にある「興国日本刀鍛錬場」が刀鍛冶を探しており、一緒にいかないかと鍛錬所の兄弟子に誘われ、火づくりを学びたい一心で行動を共にした。京都を辞するに際し、中川総長や桜井先生の意向が気になったが、裏で応援してくれたのが流政之氏で、ヘソを曲げそうになった中川総長も説き伏せてくれた。 尾道郊外での暮らしは、当時の世相を考えれば非常に恵まれていた。京都では食料事情が厳しくイモのつるばかり食べる毎日だったが、尾道郊外の生活では、とれたてのタイやフグやイカやタコ…、その新鮮さとおいしさといったらなく、おまけに秋にはマツタケがどっさり生える土地柄で、タイとフグとマツタケは一生分食したほどであったという。 昭和18年8月、病床に伏して半年の、兄弟子の横田氏が帰らぬ人となる。独りになったが、鍛錬所のオーナー・金野光撰氏の「食べるものや材料のことは何も心配しなくてもいいから、うちの所で日本一の刀をつくってください。」との言葉に支えられ、尾道に残り作刀を続ける。「代々の刀鍛冶の生まれでもない私は、考えてみれば、いつも独学同様に仕事をしてきた。立命館で桜井先生という師についたとはいえそれもわずか一年半。師と思う兄弟子とは約半年の縁だった。私にとって刀の仕事は始めから徒手空拳の、一世一代限りが宿命なのだ。」そう覚悟を決め、くる日もくる日も作刀研究に没頭した。 同年、佐世保鎮守府主催の新作刀展に出品した刀が、特賞の鎮守府長官賞を受賞する。作品は2尺3寸ほどの刀で、初期の鍛錬は横田氏が行ったもの。横田氏が病気になった後、兄弟子の志を継ぎ隅谷氏が完成まで持って行った。備前伝にのっとって作った自信作で、このときはじめて正峯と銘を切る。初めて公の場で認められた作品となった。 日中は刀作り、夜は12時頃まで研ぎをし、2~3時間本を読んで寝る生活がまた復活した。日に3~4時間しか寝ない、時には徹夜もする生活は体にたたった。徴兵検査で胸部疾患が見つかり、丙種合格となり、兵隊には行かなかった。厳しい戦時下の備後路の山奥で黙々と作刀に励んだ。 昭和19年4月、24歳で同郷の妻・外喜子さんと結婚。正峯の実家は醤油屋だが、外喜子さんは最初から刀鍛冶のもとに嫁いだつもりでいた。 そのころ京都・立命館の鍛錬所では、師匠の桜井正幸刀匠指導の下、作刀が続けられていた。戦局が険しくなり、物資不足が募るにつれ戦地向けに粗製濫造の傾向が見え始め、いきおい量産体制的な掛け声のもと製作されていたと思われ、いずれ立命館へ戻って先生の手伝いをしなければ、と考えているうち終戦を迎えた。昭和20年8月、妻と4か月になる長女ともども、故郷の石川県松任町に帰った。 ポツダム宣言受諾により、日本国中のあらゆる武器を連合国軍に引き渡すべしとの命令が下され、その武器の中に日本刀も明記されていた。日本古来の美術的価値の高い名刀も没収されようとしたが、刀剣関係の先達の大変な努力で「善意の日本人が所有する骨董的価値のある刀剣は、審査の上で日本人に保管を許す」と改められ、その後も紆余曲折を経て今日に至る。美術刀剣そのものの受難は回避されたものの、当時作刀は禁止されていた。正峯はその間、家業を手伝う傍ら、工芸の盛んな土地柄を活かし多くの工芸作家と交流し、篆刻や彫刻、根付けなども学び、刀以外のことを努めて吸収した。 敗戦以降作刀はできなかったが、昭和28年、伊勢神宮の戦後初の式年遷宮を行う事になった際、神々に捧げるご神宝の太刀を新たにととのえる必要に迫られたことをきっかけに、刀鍛冶の作刀が認められるようになった。昭和29年6月、文化財保護委員会からようやく刀匠認可をうけ、作刀を再開。昭和30年に始まった「新作刀技術発表会」にも果敢に挑むが、始め二年は入選にとどまる。 家の敷地の奥まった一角の空き地に鍛錬所を建て、昭和31年11月のある日火入れ式を行った。鍛錬所の名は「傘笠亭(さんりゅうてい)」、立命館の古式鍛錬所の名をそのまま移し、桜井卍正次・桜井正幸と続いた芸統を受け継ぎ刀一筋に生きる決意を新たにする。 自分の仕事場をもち、のびのびと作刀に取り組み始め、昭和32年の第三回新作刀技術発表会の出品作で、入選の段階から努力賞を飛び越え優秀賞を受けた。 以降33年、34年と優秀賞を得、35年には「大般若長光」を作意とした刀で待望の特賞を受賞。36年に一度だけ優秀賞になったが、37年、38年、39年と連続特賞。38年の受賞作は徳川家康の愛刀「日光助真」を写し、銘は相州雪ノ下の住人といわれる正宗にちなんで「加州雪ノ下住人傘笠亭正峯 癸卯年二月ユキノ下ニテ作之」と刻む。この年北陸地方を襲った豪雪で、鍛錬所も「雪の下」に埋まった中で作った刀だった。 戦後第2回目の第六十回伊勢神宮式年遷宮(昭和48年)のため、正峯はご神宝第一「玉纏御太刀(たままきのおんたち)」の名誉ある制作奉仕を任され、昭和39年11月に納めた。続いて昭和41年作の2尺6寸の「ほ号太刀」など11振りを追加制作。 昭和40年から、「新作刀技術発表会」は「新作名刀展」と名をかえ、これに出品した「太刀 銘 道誉一文字作意 傘笠亭正峯作之 昭和甲辰年八月日」にて正宗賞を受賞、あわせて佐藤栄作首相がつとめた名誉会長賞も受賞。昭和41年の第二回新作名刀展では、「太刀 銘 加賀国住人正峯 思飛鎌倉期漂一文字上 於傘笠亭作之 昭和丙午年二月」にて、正宗賞を連続受賞。昭和42年無鑑査に認定、新作名刀展審査員となり、同年石川県無形文化財に指定された。昭和43年初めて個展を開催、昭和47年第一回薫山賞を受賞、昭和49年には、自身三回目となる正宗賞を受賞。 以降も、鎌倉時代の名刀に迫る試行錯誤を続ける一方、正倉院刀子の製作研究にも取り組み、刀身の金象嵌、鞘の金無垢の金具、角製の鞘の細工、撥鏤鞘の製作も自ら行った。刀子の作品展を催した際には女性ファンがどっと詰めかけたという。 昭和56年、60歳のとき国の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。平成2年、天皇陛下即位の大礼の宝刀を制作。以後、皇太子妃雅子殿下、秋篠宮眞子親王殿下、秋篠宮佳子内親王殿下のお守り刀も制作。平成5年、勲四等旭日小授賞を授賞。 平成10年12月12日没。享年77歳。 「鉄は銹びやすく腐食しやすい。一見軟弱で無骨なこの金属を、鍛え、磨くことによって金銀にも勝る尊く美しいものにするーーそれが日本刀をつくるということだ。」 (参考文献 : 日本経済新聞『私の履歴書 隅谷正峯』1990年8月1~30日) 【状態】ハバキ下にわずかな擦れ、切先先端にごく小さな欠けがあります。そのほかは良好です。 |
【付属品】素銅地金着一重ハバキ、白鞘、白鞘袋、登録証(石川県二〇三三一号 昭和50年11月14日交付)、特別保存刀剣鑑定書(日本美術刀剣保存協会 令和5年3月10日発行)
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【商品番号】A050625 【価格】2,800,000円(消費税、国内送料込み) |
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